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アフリカへサファリに行く

結び

アフリカへサファリに行く

結び

無事タンザニアの旅を終え、ロンドンへ舞い降りる。
ヒースロー。欧州でもっとも多忙な空港だ。

スーツケースを引っ張ってターミナルの外へ出る。2月下旬、朝7時。空は曇り、気温5度。雨が上がったばかりのようで、地面がびしょびしょに濡れている。身震いしながらセーターに頭をくぐらせ、ウォータープルーフのコートを着る。埃がない。湿度が高い。空が暗い。
ウーバーの運転手さんが「いままでどこへ行ってきたの」。

車が幹線道路を抜けて、住宅地にさしかかる。どっと安堵が押し寄せて、それから疲労がやってくる。全身が重くて鈍い。
脇の歩道を、職場へ向かう大人たちや通学中の子どもたちが歩いていく。バス停には次のバスを待つ人だかり。

通りに並ぶ家々をぼんやりと眺める。そこにある人びとの暮らしを想像する。この北国の都市ではどこの家にもラジエーターが張り巡らされ、真冬であっても部屋の中は暖かだ。蛇口をひねれば水が出て、台所やバスルームではお湯が出る。もちろんお金はかかるけれど、お金を払っているかぎり、基本的には好きなだけ利用することができる。大量の洗濯物を洗ったり、バスタブにお湯を溜めたりするのもわけはない。しかしサバンナではそうはいかない。あそこで水はとても貴重だ。いくらお金を払っても手に入れることがむずかしい。お金だけではどうにもならない。そういう場所が地球上にまだ残っている。

マサイが忘れられない。マサイの多くはいまもきわめて伝統的な生活の延長上を生きている。人類発祥の地で、太古の人が送った暮らしとつながりを保っている。マサイランドと呼ばれる土地、無数の野生動物が生息している大地の中を転々と移り住む。荒々しい自然によって鍛えられた独自の知恵と精神を彼らは受け継いでいる。つねに自然と接続し、自身をときに溶け込ませ、ときに対峙しながらも、彼らは自分と家族の絆、コミュニティとの絆を築く。
彼らはけっして裕福ではない。多くの子どもはガリガリで、日常的にお腹いっぱい食べられるということがない。大人たちもけっして裕福と呼べない中で、大きな家族を形成する。けれども彼らは誇り高い。そしておそらく幸せがどんなものかを知っている。とても特殊なやりかたで、きわめて伝統的なスタイルで自分たちの真実を生きている。

現代の都市生活は強力な魔力があって、いつの間にかくるくると私たちを巻き取っていく。便利で快適、効率的。手にしたらもう二度と手放すことができそうにない。都市文明は、地上や地下、上空で物や人を効率的に動かす仕組みを構築した。やがてそのシステムは、物理的な世界を超えて仮想世界へ流れ込み、日々拡大を続けている。現実が仮想を変え、仮想が現実を変えていく。私たちの世界では、現実と仮想が絶え間なく接続している。
おかげでいま、人びとは大きな力を手にしている。これができる。あれができる。独特の有能感が増していく。対象を使いこなす。ハックする。いつでもどこでも誰かとつながる。暇をつぶして孤独を埋める。問題を解決する。不便や不満を解消する。効率を突き詰める。思いどおりに支配する。そして人は解放される。解放されて自由になる。そんな気になってくる。でも、本当に? 本当にそうだろうか?

半世紀前、操縦士で作家のサン=テクジュペリはこんなふうに言っている。機械の発達がすばらしいのは、人間の意識が機械そのものから離れていくところにあるのだと。たとえば飛行機のエンジンが劇的に改良されたとする。操縦士はもう不安定なエンジンと格闘する必要がない。すると彼の意識はしだいにエンジンを離れていき、その先の景色へ向かう。操縦士はこうして発動機から解放されて、その向こうに広がる自然の姿を見つけ出す。海や風、砂や星、川や森、そこに潜む生命たちと互いに心を通わせる。平原を這う1本の小川、1軒の農家と羊、砂漠のキツネにあいさつする。彼はまた、どこかの空で飛行を続ける僚友たちとつながっている。操縦士は孤独ではない。彼はまた不幸でもない。実はそれとまったく逆のことを味わっている。彼は言う。人は、研ぎ澄まされた機械の先に、しかしあくまでその機械を通して、世界の真理を発見するのだと。農夫は農夫の、庭師は庭師の、詩人は詩人の真実を見つけ出す。
彼はこう結んでいる:自分のしていることに意味を見出し、それによってほかの人間、生命と結ばれるとき、人は初めて解放される。

このことを直感的に、たいへん伝統的なアプローチによって掴んでいるのはマサイかもしれない。アフリカから戻ったいま奇妙な感覚にとらわれている。人間がみずからによって解放されるということ。自由になるということ。
「自分のしていることに意味を見出し、それによってほかの人間、生命と結ばれるとき、人は初めて解放される」
現代に生きる多くの人も、すでにどこかで気づいているかもしれない。あるいはまもなくじわじわと、すぐそこの未来で、その実感が押し寄せてくるかもしれない。働くこと、遊ぶこと、生きること。機械の飛躍的な発展により、従来のあらゆる活動や社会の仕組みそのものが異なる次元にシフトしたとき、この操縦士の言葉はふたたび意味をおびてくるかもしれない。アフリカから帰ったいま、そんな思いにとらわれている。

(おわり)