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アフリカへサファリに行く

セレンゲティ編(2)

アフリカへサファリに行く

セレンゲティ編(2)

横たわるヌーの赤ちゃん

ガタガタ揺れる砂利道を走りながら、何気なく窓の外を眺めていると、泥の上になにかが横たわっている。

なんだろう、胸がこんなにドキドキする。

「これってもしかして、死体……?」
つぎの瞬間、運転席から歓喜の叫びが返ってくる。
「ちがう、ちがう、ヌーの赤ちゃん、生まれたばかりの!」
「おお……これが、ヌーの赤ちゃん……?」

私はふたたびその生き物をしげしげと眺める。なんという薄さだろう。胎内で折りたたまれていたからだろうか。脚はまるでロープのようにグニャリとして。
ああ、そうか、生まれたて。生まれたてということは–––––
高鳴る胸を抑えつつ、ようやく私はそれに気がつく。
この子はこれから立ち上がるんだ。よく農場なんかであるような、子羊だとか子馬みたいに。
「見ていてごらん。10分以内に走り出す」
「じ、じっぷん以内?」
「ほら、カメラ、カメラ!」

私は静かに窓を開けて、カメラを向ける。けれどもカメラの録画モードはデータが重くてとても長持ちしそうにない。携帯で撮るしかないが、携帯だってそれなりにデータを食う。そしてこの子がいつ立ち上がるのか、その瞬間がいつくるのかはわからない。ならばとにかく自分の目に焼き付けるように観察しよう。

……。

車内のおしゃべりが止む。
サバンナを駆けていく風の音が聞こえる。空の上を雲が流れる。

赤ん坊は横たわったまま。首から上を持ち上げて、ふたたびそれを地面に下ろす。
なるほど、立ち上がるまでのはじめの一歩は、頭の上げ下げからはじまるのだ。いっぽう脚は遠くへ投げ出されたまま1ミリも動かない。それどころか、胴体と脳の部分がまだ切断されているような印象で。自分の体を自分のものだと気づいていないみたいに見える。

それにしても、母親はどこにいるのだろう?
「あそこにママがいる」
数十メートル離れた場所で、ぽつんとヌーが立っている。
「僕ら、すこしだけ移動しよう」

 

シンバが車を前に出し、エンジンを切って静かに待つ。

まもなく、赤ん坊の母親が子どものそばへそろそろと歩いてくる。
そしてまっすぐこちらを見る。するどいその野生の目で、私たちをとらえている。

赤ん坊はいまも首を持ち上げがんばっている。母親は何もしない。ただそばで子どもを見つめるだけだ。

そのまま数分が経過する。
子どもはすでに頭を支えられるようになっている。今度は足を地面につけて、体をぐっと上に起こす動作に入る。起こしては休み、起こしては休み。

出しぬけに、本当に出しぬけに、赤ちゃんが立ち上がる。
全身が突っ張っている。細くて長い4本脚がプルプルと震えている。どうにかこうにか姿勢をキープしている様子。
これを見た母親は、前方へと足を進める。そしてうしろを振り返る。「さあおいで」と導くように。赤ん坊のはじめの一歩を忍耐づよく待っている。

けれどもはじめ、赤ん坊は転んでしまう。台本にでも書いてあるみたいに地面に顔を突っ伏して。
それでも子どもは自分で起きる。母親は動かない。おぼつかない足どりで、前へ前へと進んでいく。いつの間にか、子どもは自力で歩けるようになっている。

もう赤ん坊は転ばない。母親にぴったりとくっついて、地面にしっかり足跡を残していく。

ほんとうに10分だった。この世に産み落とされてからたったの10分。みずからプルプル立ち上がり、転びながらも前へ前へと歩き出す。人間なら1年はかかるというのに。

最後に一瞬、母親がこちらを振り返ったような気がした。