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ひさびさにラジオをつけたら、英国カンタベリー大司教と首席ラビによる喪失の悲しみについての対話をやっていて、思わず聴き入ってしまった。

パンデミックの影響で大切な人を失う個人が増えたことを背景に、私たちは深い喪失の悲しみとどのように折り合いをつけていけばよいのか、というのがこの短篇ドキュメンタリーのトピックだったが、お二人ともにご自身のお子さんを若い時期に事故や病で亡くされていたことが最初からオープンにされていて、崇高な宗教的指導者からの助言というより、きわめて個人的な悲しみと痛みから発せられる凝縮された知性を感じ、一気に引きつけられた。

大切な人を失った悲しみは、きわめて個人的で深い悲しみであり、ほかのどのような悲しみとも違っていること。そのため、だれかが「私もあなたの悲しみがわかるよ」と言うことは困難であり、その人とまったく同じに感じることはできないこと。他者がしてやれることは、ただそばにいてあげること、独りきりではないのだというコクーンのようなあたたかさをつくること、ときには笑いをもたらすこと。あるいは、ごく実践的な生活のあれこれを手助けすること。

予測することが難しい時代には「resilience / レジリエンス」という言葉があふれているが、レジリエンスはラテン語で leap back/ 跳び戻る rebounce / 跳ね返る という意味があるので、ベストな言葉ではないのではないか。むしろ「comfort / やわらげる, らくにする」のほうが、change / 変化する, strengthen / 強くする, support / 支える という意味を元来含むので、しっくりくるのではないか。深い悲しみを経験し、自分が変化することによって、失われた人との特別な思い出をその先へ生かすことができるのではないか。

fate (運命) と destiny (運命) は違うこと。fateは自分の手に追えない運命、人知を超えたものであり、destinyはそれをどのように切り開くのかというチョイス、選択であること。極端な例を出せば、ホロコーストを生き抜いた人びとはおおむね運命を受けとめ、だからこそそれを切り開いてきた人びとであったこと。

虹というのは太陽が雲のあいだ、水滴の中を通り抜け、光が分解されることで見えるようになる。つまり虹は雲があるからできるということ。雲の暗さがあるからこそ。にもかかわらず、ではなく、だからこそ。

深い喪失による悲しみは、その人の人生と共にあり続けること。だから、ときにその悲しみがやってきても抑えこむことはせず、自分にやさしくなること、自身を観察すること。大切な人を永遠に失うことはとてつもない苦痛であると、喪失や悲しみについて正直になること。

そして、失われた人のあたたかさ、その人と一緒にいられたよろこびを想うこと。