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先日長野県に引っ越し、20年ぶりに地方の暮らしを始めることになりました。

家のまわりはどこもかしこも木でいっぱいです。栗の木やら松の木やらモミジやらがザワザワと生い茂る。
モミジと聞くとこれから秋の紅葉が楽しみではありますが、年中ここに暮らすと思うと、これほど鬱蒼とした木や植物といったいどう関わっていけばよいのやら、どんなふうに面倒を見てやればいいのかと、若干途方に暮れています。

以前、実家(田舎)の両親が夏の庭の芝刈りや雑草との格闘にヒイヒイ言いつつ、年々の夏到来を恐れるいっぽう(高齢になれば死闘に近いと思われる)、東京から来たお客さんが「なんてすばらしいお庭、うらやましいわ」とうっとりしていた光景を思い出してしまいました。訪れるのと暮らすのとではまったく訳がちがうよね、という。

そして今度は家の裏、北へ向かって1キロ進めば、高さ200メートルほどの小さな山にぶつかります。
そもそも標高が高いので、その頂きは日によってクリアだったり、うっすら霞がかっていたり、あるいはすっぽり雲の中に入っていたりと日々表情を変えるのですが、平野育ちの私にとってはその移ろいが物珍しく、いまだにツーリスト気分というかお客さん気分というか、つい見入ってしまいます。いつになったら慣れるのか。

それから虫です。やっぱり虫。蚊はいません。その他大勢、名前も知らない虫、虫、虫……
幼い頃はクワガタやカブトムシ、蝶なんかを追いかけて育った身ですが、故郷は平野の田園地帯であったので、雑木林に囲まれたお寺や神社など特別なスポットでなければ本格的な虫たちには出会えなかったと思います。でもここは、そこらじゅうに虫がいる。いかにも森的な虫たちが。これだけ木があり山があり、いないわけはありません。すでに得体のしれない昆虫たちがご丁寧に家の中までやってくるのを見かけていますが(いちおう高気密な家なのに、どこから入ってくるんだろう)、そんなときは叩くことなく屋外へつまみ出させてもらっています。いつの間にか当たり前になっていた「虫=気持ち悪い」の認識を久しぶりに解しながら、いつかの自分、かつて虫を追いかけ野山を走り回っていたあの頃と再び同期させています。

そんな中1つだけ、たまげたことがありました。思わず「えええええ?!」と叫んでしまった。
引っ越し直後、その翌朝のできごとです。

朝ベッドから起き上がると、網戸になにか20センチほどの大きな汚れ?が付いているので、寝ぼけ眼で近寄りました。
近眼で、まだコンタクトを入れる前の時間なので、数センチの距離までに迫ってそれを観察します。
すると、なんと。

小さな鳥が
くちばしを網戸にズボッと刺したまま
抜けなくなって死んでいる

「えええええ?!」

ちょっと、にわかに信じがたい光景ですが、見間違いではありません。
そしてそれは多分キツツキと思われる。網戸には思い切り突つかれた穴が残っているのです。

かわいそうなキツツキ…… 突ついちゃったの…… 網戸を………??

はじめて見ました、キツツキって。大きさも羽の様子もいま知ったくらいです。それは私の中では妖精的、まぼろし的な鳥でした。森の奥地で木を突つく、かわいらしくて不思議な小鳥。その突つく音を聴き分けるのは森に分け入るベテランの木こり、という。そんな遠い世界の住人であるキツツキが、あろうことかわが家の網戸を突ついてしまい、くちばしが抜けなくなって死んでいる。

私はとりあえず子どもたちを招集しました。
「ちょっと、みんなこれ見てよ」
トコトコと子どもたちが寝室から出てきます。

「えー、なに、これ?! ウッドペッカー?」まず騒ぎ立てるのは長男で、長女は見るなり黙ってその場を立ち去ります。そして次男は事態をうまく呑み込めず、まだ半分眠っている。

「…………」

かわいそうに、おそらく木と間違えて、普通に突ついてみたのでしょう。いつものように。しかしそれは不幸にも網戸だった。機械によってキツく結われたワイヤーは、一度刺したら抜けられない。

たぶん相当ジタバタしたと思います。半開きの彼女の目がその苦しさを伝えている。翼は閉じられ、二本の脚は宙に虚しく浮いたまま。網戸に刺さったくちばしだけが彼女の体重を支えている。

かわいそうに、せめて埋葬してあげようとみなで庭の土に埋めました。
引き抜くときに、くちばしがなかなか抜けず、気の毒でした。


そんなこんなで、引っ越し早々この土地の洗礼を受けた気がしています。
というか、キツツキなんてかわいいものかもしれなくて。これからいったい何が出てくるんだろうと戦々恐々。
とりあえずクマに出会わないように注意、ですかね。

 ・

ただ改めて思い知らされたのは、「快適な」暮らしというのが、人間に不都合な虫や植物、動物なんかを山の奥へと追いやって成立しているってことです(その最たる都市国家はシンガポールだと思う)。そこでは汚らしいもの、臭いもの、不衛生なもの、縁起のわるいものなどがほとんど目に入ってこない。虫も植物も動物も、そしてそれらの死体までも、みんな遠くへ追いやられ、あるいはきれい蓋をされて、上手に目隠されている。汚水やゴミも同様に。それらはどこかに必ずあるものなのに(そして日々増えつづけて止まないのに)、地下に埋められ、海に流され、人の少ない場所に送り出される。
まるでなかったことみたいに。

すこし時間をさかのぼれば、綺麗なものも汚いものも、美しいものも醜いものも、生き物や人びとの生も死も、すぐそばにあったのに。たかだか百年前でさえ、いま思えばいろんなものが剥き出しで、ぐちゃぐちゃに混ざり合って存在していた。

昔に戻りたいとは思わないけど、どこかやっぱり気になります。暮らしの快適さや便利さと引き換えに、見ないことにしてきた不快さだとか不潔さだとか、異形さ、あるいは死、死の気配。それらが今後どこまで抑圧(撲滅)されていくかということ。あるいはそうした動きがもたらす歪みなんかが、どのような形をともなって立ち現れるかについて。

しばらくは新たな土地で、前向きに暮らしていこうと思います。
虫や動物、自然をより身近に感じながら。

 

 

(写真は、週末出かけた長野県小諸市の「布引観音」、最後に「布引観音温泉」です)