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東京から突如ロンドンへ渡り、8年向こうで暮らしたあと、ふたたび日本へ戻ってきたとき、住む場所にはけっこう悩みました。

「で、どこに住むの?」

こう聞かれた私が「長野県」、「えっ、長野県?」、「はい、軽井沢です」と答えると、やっぱり普通に「なんで?」という反応が返ってきます。

「なんで(わざわざ)軽井沢なの?(あそこって別荘地でしょ?)」

まさにそうです。夏だけちょっと訪れて「軽井沢っていいなあ」「涼しくて、雰囲気よくてね」と帰っていくのと、年間通じて定住するのはだいぶ話が違ってきます。たしかに夏はいいけれど、冬になったらマイナス10度。長い冬は底冷えで、ときどき雪も積もってくるし、路面はだいたい凍結してる。スノータイヤの車なしでは動き回ることもできず、夏の頃には賑やかだった飲食店やおしゃれなショップもほとんどんが店じまい。そしてようやく、待ちに待った冬が明けると、こんどはあたりが霧に包まれ、湿度が高くてジメジメしてくる。過ごしやすい気候になるのはゴールデンウィークがきてからで、その頃には押し寄せる観光客で町中がごった返す。

それでもなぜ軽井沢かと聞かれたら、ある程度思い通りにならない感じを体感しながら、うつくしい自然のなかで子どもと暮らそうと思ったからーーーなんのこっちゃと言うことですが。

この数年、まるでほとんど思い通りに操ることができるかのような万能感を、自分の子どもが幼いうちから味わうことに、違和感を感じていました。たとえばスマホやタブレットをつかっていると、画面の上で指をすべらすだけで、いろいろなことがいとも簡単にできてしまう。知りたいことは今すぐ検索すればよく、見たいときに見たい動画を再生し、だれかと遠隔でゲームができる。ボタンひとつで保護者のクレカで買いものが済み、翌日か翌々日には自宅にそれが届いている。あまりにも多くのことが、いとも簡単にできてしまう、ような気がする。でも実際は、たくさんのものごとや人と人との関係性、人と自然の関係性は、それほどうまく運ばない…… テクノロジーを否定するわけではないけれど、要は「人生、そんな思い通りにいかなくない?」っていうことかなと思っています。「ね? ほら、最初からそんなにうまくいかないでしょ、実際なかなか思った通りにならないでしょ、まあそりゃあそうだよねっ」 これは悲観でなくて、だからこそ前向きに、つまり思い通りにならないことはニュートラルな前提として織りこみながら、そこのところをどう味わっていけるのかが大事になる気がします。「うん、そうだね」と。「じゃあそれで、どうしていこうか」

それから実際、いろいろな地域や国を廻ってみて、やっぱり「思い通りにならないときも、おおむね楽しく生きる力」は大事だなあと改めて考えさせられました。一見すると世間的には華やかに見えるような人でも(たとえばバンカーや弁護士、実業家、あるいは貴族も)、彼らには彼ら特有の苦労や悩み、不安があって、けれどもそれとはまた逆に、ある方向から見たときには”恵まれない”と呼べるような環境に置かれていても、日々をたのしく生きる人が、世界には大勢いる。だから、置かれた環境がどうであれ、「思い通りにならないときも、おおむね楽しく生きる力」を備えることは大事だと思うようになりました。

 

[写真:旅行においても、厳しい自然環境にもかかわらず、おおむね楽しく日々を送る現地の人を垣間見てきた。たとえば、アイスランドは極寒の火山地帯だけど、だからこそ人びとは野趣あふれる天然温泉をたのしんだり、温かい家のなかで読書にいそしみ、その読書量は世界一、人口あたりの小説家数は世界一、そして人口の大半の人がいまだに妖精の存在を心のどこかで信じている…]

それで、その種の姿勢を育むアプローチとして、思い通りにならない典型である自然の中に、ある程度子どもを投げ入れ、自分もたのしく前向きに暮らしてみるのも悪くないな、と思うようになりました。こちらとしては、まだ体力のあるうちに。

そうでなければ、いまごろは順当に東京の都市生活へ溶け込んで、子どもたちを可能な限り苦労を排した快適な環境に置こうと親として奮闘し、同時にまた自分自身もこの上なく便利で快適な生活を追いかけ夢見、その方向へ邁進し…… とまあ、それも1つの方向ではありますが、個人的にはどうもそれでは意外性がないというか、面白みに欠けるというか、感覚的に21世紀的ではないというか……

 

「でもそこで軽井沢? 自然の豊かな八ヶ岳とかではなく?」

そこはやっぱり自分たちの軟弱さだったり自信のなさだったり、とは言ってもなんだかんだ仕事で東京に行く必要はあるというリアリティが作用してます。

「というか子どもの学校は? どういう学校に入れるの?」

これもまた難しいテーマというか、価値観しだいで正解のないことですがーーー

「ああ、そうか、軽井沢には有名なインター(ナショナルスクール)があるもんね」

たしかに有名なISAKがありますが高校です。子どもたちもこの先いったいどうなるのか、先がまったく読めません。

「そうなんだ、あそこって高校からなの。じゃあどうするの、学校は。どうするの、英語は」

そうなんです、子どもたちの英語って、吸収は速いのですが、忘れるのもとても速い… いま、学校で英語を使わなくなり2ヶ月ですが、早速「単語がすぐに出てこない」という声が上がっています。

「せっかくイギリスから帰ってきたのに、(インターに行かせかせないのは)もったいなくない?」

通っているのは地元の公立小ですが、アットホームな雰囲気で子どもも私も気に入っています。それから多様性ということで言えば、国籍は多くてもそれ以外の要素でみたら圧倒的に同質的なインターの小学校より、地方の公立小のほうが多様性があることを個人的には感じています。それに両親ともに日本人で、どう見られても外見的には日本人、アイデンティティも日本な彼らがせっかく日本で暮らすのに、日本の学校に入れない手はないだろうと思いました。ぜひとも彼らの拙すぎる日本語を進化させ、日本にたいする浅い理解を深めていってもらいたいです。

「それじゃ、英語はどうするの?」

インターネットを上手に使えば、さまざまな可能性はあるはずだと思います。たとえば海外の学校の教師にじかに教えてもらうことも可能ですし、家中のメディアを英語にすることも不可能ではありません。問題はそれを実際やれるかどうか、継続してつづけることができるかどうか。

そもそも、子どもをインターナショナル・スクールに入れたとしても、その子がいわゆる英語が通じる国、ましてや先進国で働くことは、それほど甘くないと思います。むしろ英語が通じる先進国だからこそ、世界中から「われこそは!」と集まったタフで優秀な人材とのはげしい競争にさらされる。少なくともロンドンはそういう場所になっていました。コネもないEU圏外の外国人がだれかに雇ってもらうとき、「あなたは、私たちがビザを発給するほどの価値を生み出せる人材ですか?」という、双方にとって切実な検問があります。そこでは、英語が操れるかどうかは聞くまでもなく、動機ややる気も別によくて、なにより当人がどんな専門性やスキル、実践経験を持っているのか、どれだけ雇用主に価値を提供できるかがシビアに問われる。

海外で活躍する、とくに大きな国際都市で活躍するということは、つまるところ地球レベルの競争に巻き込まれるということ… そこでニッチでいるなら別にせよ、いわゆる絵に描いたようなグローバル・エリート像(古)や競争に勝ちぬくことを目指そうとすればするほど、行く先々には常に「さらなる高み」が待っています。ちょうどxx地区代表からxx市代表へ、xx市代表からxx県代表へ、xx県代表からxx国代表へ、階段を駆け上がっていくように。そこはまさにドラゴンボールの天下一武道会。「オッス、おら悟空、腕にはけっこう自信あるぞ、よろしくな!」それでゴオーンとドラが鳴る。

もちろんそういう戦闘モードでさらなる高みを目指すのに喜びを感じる人にはたまらないと思うのですが、みんながみんな、たとえばわが子がそうだとは限りません。わが子と言っても、自分ではない他人ですし、仮に親がそうだとしても遺伝子の突然変異もありえます。それにもし、その子がそういう性分に生まれついているのなら、おそらくだれかに言われる前に、自ら勝手にどこへでも飛び出していくことでしょう。

「そう、それで軽井沢にしたわけ?」

だいたいそんな感じです。この土地は、もともと住んでいた人と、どこかから移住してきた人と、一部の外国人と、大勢の観光客が季節ごとに入れ替わる、そんな変わった場所です。

それでもし「これはダメだ」という状況に陥ってしまったらーーーまた普通に淡々と、たのしくやるしかないのかな……

「ふーん、そうなんだ」

 

今日も軽井沢は雨でジメジメ、空には太陽が出る隙間もありません。街に出れば、飲食店はいわゆる観光地価格のレンジで営業しています。週末にたまたま時間を潰す必要があり、とっさに入った森の中のオーベルジュ的カフェテリアでは、ケーキセットのお値段を見て、入店をやや後悔しました。
先日は、警察官のお兄さんが明らかに犬ではないものを紐で引いて歩いているので、「いったいそれはなんの動物ですか?」と車の窓から尋ねたところ、「ええ、これは近くで拾われた豚でして」という返事。
町立の病院に立ち寄れば、受付前の大画面で「クマ、いまココ」という熊に埋め込まれたGPS情報が現在進行形でシェアされます。
さらに教育委員会から家庭へのメールでは、「近日この区域でイノシシが確認されたので、十分に注意をお願いします」とのこと。さて、どうやって注意すればいいんだろう?

とりあえず、子どもたちは学校で配られた鈴をしゃんしゃん鳴らしながら、たのしく学校に通っています。