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この数年で、育児と自分のありかたが、ものすごくラクになった。子どもをどう育てようとか、どこへどう導けばいいのとか、思い悩むこともあったけど、いまはもう嘘みたいにストレスを感じない。

もちろんラクになったのは、子どもにかかる物理的・精神的な労力が、単純にとても減ったからだというのはある。なんといっても彼らは自分で小学校に通学し、近所であればもう自転車で動き回れる年齢だ。自分はいまこうしたい、ああしたいという意思もあり、必要ならばそれをまわりに伝えることも一応できる。彼らはずいぶん成長し、おかげでこちらもラクになった。

けれども単にそれだけで、いま感じているストレス・レスな状態を説明するのはむずかしい。むしろ親としての心もちというか、刺激にたいする反応のしかた、そのクセみたいなものがこの数年で徐々に変化し、なにかこう別ものになったような感覚が残っている。変容、というと大袈裟に聞こえるが、やっぱりそういうことかもしれない。それで今日は、この変容について忘れないうち記録しておこうと思った。

●人と比べてジャッジしない。

まず、ほかの子となにかを比べてジャッジすることがなくなった。

これはなかなか曲者で、よその子をみるとつい、「(あの子に比べて)うちの子は……」などと余計な思いを抱いてしまう。そんなつもりはないはずなのに、気づくともう心のどこかがその部分に触れている。そっちへは行きたくないのに、いつのまにか心の一部が移動して、こっちをじっと眺めてくる。冷静になってみれば、だれかと比べて一喜一憂することや、相対化すること自体、あまり意味がないことは自分でもよくわかっている。意味がないならやめればいいのも、頭では理解している。けれども、この心の動きをどうにかするのは、思った以上に厄介だった。もしかすると性格を変えるのに近いかもしれない。

私はそこで、目に見えない感情のしっぽみたいなものを追いかけ掴み、面と向かって問いただすというプロセスを幾度となく繰り返した。心の機微に意識を向け、ついつい飛び出すその気持ち、つまりほかの子と比べてジャッジしてしまう気持ちのクセを逃さずとらえ、出どころを突きとめる。そして反論を開始する。実際これはめんどうなプロセスで、毎回かなり辛抱づよく付き合わなければならない。べつに感情と向き合わずとも、感情は感情だよね! とそのままスルーしていればいいのかもしれないが、自分はそこを直したいと欲したために、これら一連の過程をたどることになったのだ。

そんなわけで、気づけばピョコッと飛び出してくる感情の尾ひれを掴まえ、反論・疑問をたたみかけていくうちに、徐々にその効果がみてとれるようになっていく。最終的には嫌いであった習性も、望みの方へとナッジされ、やがて転換されてゆく…。

話が抽象的になってきたので、もっと具体的に書いてみたい。

仮に、自分の子どものすぐ横に、見るからに賢い別の子どもが座っていたとする。すると、例によって心のどこかが勝手にそわそわしはじめる。「わー、なんて賢いんだろう!」ここで終わればいいのだが、つい「それに比べてうちの子は……」「これではなあ……」などと思ってしまう。そこで気がつく。「あ、きたな」「やっちゃった」。その瞬間に頭をもたげる残念感は、いったんかわすことにする。そして理性を呼び戻す。冷静さが戻ってくるのをじっと待つ。たった数秒でこれはくる。戻ってきたら、いよいよ反論を開始する。

たとえば、そもそも論から入ってみるーーーそもそも賢いことが、そんなにいいのか。賢ければ、それでいいのか。だいいちパッと見の賢さなんて、人間の数えきれない資質・特徴・性格・態度などの、ごく一部の要素にすぎない。それに、ひとくちに賢さといったところで、数学的とか、語学的とか、空間を把握する力だとか、あるいは人の気持ちわかるかだとか、そのタイプもいろいろある。さらにその、心惹かれた賢さだって、幼少期のある時点でたまたま表に現れた要素というだけかもしれず、その子にせよ、自分の子にせよ、この先どんな遺伝子が人生のどのタイミングで発現するかということは、まったくもって未知である(たとえばその子が偉大なジョッキーになる才能があったとしても、それは発現するかもしれないし、しないかもしれない)。未知について、対処的に悩んだところで仕方がない。それにもし、もしもだけれど、そういう遺伝子を子どもが元来もち合わせていないとしたら、それこそもうどうにもならない。ないものを嘆いたりねだったりするより、あるものに目を向けるほうが建設的だし、前向きだ。さらにその子が、自分のもちものに興味があって、その力を伸ばしたいと欲しているかも重要になるだろう。できることとやりたいことは違う場合もあるわけで……。
と、たとえばこんなふうにしつこく考え、反論・疑問を繰り返すうち、私が子どもをほかの子と比べることは次第にやんでいった。

こうした考えや反応のしかたなんかが、自分の日々の行動や習慣として定着してくると、あとはもう自然な流れで、(子どもだけでなく)自身についても同じことが適応されるようになってくる。つまり、自分自身をほかのだれかと見比べ、ああだこうだと心のどこかでうつむくことがなくなっていった。きっかけは育児であったが、じつは自身のありかたも、それでずいぶんラクになった。

●メジャーな基準や価値観から距離をおく。

“人” と比べて一喜一憂するのをやめるーーーこれは自分の中でやがて、 “世の中で支配的な基準や価値観” へと、対象の輪を広げていった。どういうことかというと、世の中で多くの人にあたり前とされている基準や価値観にはもう、全然引っ張られなくていいや、と思うようになっていた。そういう社会的規範みたいなものは、一見強固に見えたとしても、じっさいとても移ろいやすく、あまりも当てにならない。

働きかた1つとってもそうだと思う。いまではすっかり普及したリモートワークも、すくなくとも10年前の日本においてはメインストリームから外れていた。技術的にはできなくもなかったのに、実験的な導入はほとんど起こらず、新型コロナの危機ではじめて「なあんだ、けっこうできるもんだね、テレワーク」と、一斉にパタパタパタと切り替わる。残業にたいする態度も手のひらを返すようだ。10年くらい前までは、大企業で残業するのは頑張れる人、やる気のある人、そんなふうに見なされた(さらに以前は「24時間戦えますか」という社会)。それが現在、残業すると当人の管理力不足、あるいは上司や組織に問題があると厳しい視線にさらされる。

そんなふうに10年単位、あるいは有事をきっかけに、世の中のメジャーな基準や価値観がコロコロと変わってしまい、往々にして180度も振り切れるなら、そもそも必死にかりそめの基準へアジャストしなくていいんじゃないか、というか、そんなに移ろいやすいシステムに寄りかかっていたくないな、とますます強く思うようになっていた。要は自分のよりどころさえあれば、それでいいんじゃないのか、と。

●どちらでもいい。

世の中的にはどうだとか、前例はこうで、普通とはこういうものだとか、常識ではこうだ、とか。あるいはだれも言及しない、不動に見える前提だとか、そういうものは、どちらでもいい。アゴタ・クリストフの短編ではないけれど、どちらでもいい。これは諦めではなく、絶望でもない。ある世界から撤退し、引きあげていく感覚, the feeling that I am withdrawing from the world, でも、さみしくはない、それと同時に、どこか忘れられた場所から、大事なものを取り戻していくような, the feeling that I am retreiving that bit from somewhere forgotten, そう、わるくない感じだ。

こと最近は “成功” と呼ばれるものを目指すことさえ、1つの価値観でしかないのかな、と感じるようになった。

世の中の基準が絶えず変化するなら、そこで期待される “成功” の中身もともに変わってくる。だから子どもを育てていても、10年後、20年後の成功がどういうものかはわからないし、考えてもしかたがない。たとえばある時代には、高級車を所有し、都市にマイホームを所有する既婚者は “成功” なのだとみなされた。けれどもいまの時代には、住まいや結婚、あるいは所有自体にもさまざまな選択肢や形態、可能性がふくまれるので、なにはいいかは人によって全然ちがう。

子育てでも、「子どもが成功してほしい」「子どもにsuccessfulな人生を送ってほしい」とよく言われる。あるいは “成功” を目指すことが前提として語られることが山ほどある。でも正直、疑問に思う:でかでかと旗のように掲げられる人生の成功は、いったいなにを意味するのだろう? そもそも人は成功しなくてはいけないの? 

ここまでくると捻くれているように聞こえるかもしれないが、それでもやっぱり疑問視せずにはいられない:べつに成功しなくても、本人が幸せならいいじゃない? 
よく “成功” と言うけれど、その前提が、社会というのは競争社会で、競争に勝ち抜くことを”成功” と呼ぶケースはかなり多い。けれどもそういう旧来の前提を、あたり前に不変のものと捉えることこそ危ういように思われる。たとえば近年、「AIに取って替わられる職業」「大人になったらなくなる仕事」といった奇妙な危機感が、子どもにまで共有されたりしているが、ほんとうにAIや機械が発達した社会であれば、人びとの生活を支えるコストが想像しがたいレベルにまで下がってくるので、人間が食べるためにわざわざ労働する必要がなくなっているかもしれない。そこではたとえば「仕事が機械に代替されて困る!」とかではなく(代替されて大いにけっこう)、「競争社会で勝ち抜こう!」とかでもなく(人間どうしが生活をかけて競い合う意味が失われ
)、人びとは単なる労働から劇的に解放されて、暇をもて余しているかもしれないのだ……

というのはまあ、正確に予測することが不可能なのだが、問題はどれが正解だとかどれが間違っているとかではなく、自分なりにしつこく考えつづけ、ある程度熟成させて、それでも(いまのところ)納得できたかどうかに尽きると思う。

●あとはもうひたすらに…

そんなわけで、長い時間をかけてようやく、子どもや自分を他人と比べてジャッジしたり、世の基準に自分を必死にアジャストしたり、子どもの未知の将来を心配したりすることがなくなっていった。

いまの自分が(おそらく最後に)子どもにしてやれるのは、彼らが自身の幸せを追うことを手助けすること、その邪魔をしないこと。そして親は親のほうで、たとえ他人にどう思われようと、自身にとっておもしろみのある人生にしていくこと、それだけだ。