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“Not Everyone Will Be Taken Into The Future”

イリヤ&エミリア・カバコフ (2001)

 

目の前に、背の高い木製のフェンスがある。
手前には階段があって、フェンスの向こうを覗くには、その階段から橋に登らなくてはならない。
階段をふみしめて橋の上にあがってみると、そこから古いプラットホームが見下ろせる。
あたりはすでに薄闇で、だれもいない。
古びた木のプラットホームには、絵画やドローイングが置き去りにされている。
うちいくつかの作品は地面へと転げ落ち、打ち捨てられたようにも見える。
列車はすでにホームを離れ、どこかへ向かって行ってしまう。
煌々と光る列車には、電子文字で赤く、こう書かれている。

”Not everyone will be taken into the future”

「だれもが未来に連れて行ってはもらえない」

 

 

イリヤ・カバコフ氏:
このインスタレーションでは、今日の現代美術を取りまく問題をあつかっています。それは、作家とその作品はすぐそこにある未来ではどうなってしまうのか?という問いであり、未来のあらたな鑑賞者、批評家、コレクター、キュレーターにどのように受け入れられ、理解されるのか?という問いでもあります。

 

すでに1年以上も前のことだが、テート・モダンで展示されたイリヤ&エミリア・カバコフの作品を、今になって思い出した。
カバコフ氏の作品群はとても印象に残っていて、うちいくつかの作品は後からフォローアップもしたのだが、それでもどうして今頃に、しかもこの作品が戻ってきたのかと思う。

こういうふうに「ふと」思い出すという時は、自分にとって何かしら重要な意味がある、たとえば先延ばしにしていた確信が後からやってくるなどの可能性があるために、できればちょっと立ち止まってあげたほうがいいのかもしれない。

だれもが未来に連れて行ってはもらえない」

確かにそれはそうかもしれない。カバコフ氏の言うように、だれもが未来に残せるような仕事なり作品なり、ありかたなりを打ち立てるのは、残念ながらできないように思われる。
列車には定員があり、乗れるものと乗れないものが発生する。すべての人を分類するものがある。
今この瞬間も列車はホームを離れていき、乗れないものを後にしてどこかへ向かって行ってしまう。

イリヤ・カバコフ氏:
つまり先を行くのはマレーヴィチ(ロシアの芸術家/芸術思想家)だけなのです。ひと握りのものだけがそこに連れて行かれるでしょうーーもっともできのいいものが。校長に選ばれしものたちがーー彼はそれがだれなのかを知っています。

20世紀前半に、現在のウクライナで生を受けたカバコフ氏は、表現がきびしく制限されていた旧ソビエト体制のもと、「公式」には絵本のイラストレーターとして実に32年間順調に活動したが、同時に「非公式」の芸術家としてモスクワの屋根裏部屋で創作し、ごく近しい人にだけその作品を見せるという長い、長いトンネルのような日々を過ごした。
ようやく国外へ出ることが旧ソビエトに認められると、まずはオーストリア、のちにニューヨークへと渡り、先に渡米していた姪のエミリアと共に創作活動をつづけていく。
のち夫婦となったこの2人は、イリヤ&エミリア・カバコフとして「ユートピア」や「夢」、「恐怖」や「逃避」などを主なテーマに、「トータル・インスタレーション」と呼ばれるジャンルを創り出すのに成功する。
それは彼らにとって、旧ソビエトの世界観をそっくりそのまま亡命先の西側で立ち上げること、それによって観客が構築された世界へと呑み込まれていく体験を創り出すという試みであった。

だれもが未来に連れて行ってはもらえない」

こうしてカバコフ氏の歩んだ文字どおり並並ならぬ日々が(その物理的/精神的/思想的な闘いが)この作品のバックボーンにあるのだと想像すると、この問いを軽々しく否定することは到底できそうにない。
けれどもできない一方で、それでも時代は変わっていく。変わっていく感じがする。とても速く、ドラスティックに。

テートで観た展示から1年以上も経っているが、たぶんあの時カバコフ氏から個人的に投げかけられた問いにたいして(個人的に問いを投げかけてくる作品こそ偉大な作品にちがいない)、今ようやく自分なりの反応が現れたように感じている。
相変わらず、カバコフ氏の作品は大変興味深いのだけれど、彼のこのステートメントにたいしては明らかに別の反応を感じている。

だれもが未来に連れて行ってはもらえない。否」

そんなことはどうでもよい。未来へ連れて行かれる必要がなくなっていくからだ。
すぐそこの未来では、だれにどう評価されるとか、どんな議論を巻き起こせるとか・せないとか、そういうことは(さらに)どうでもよくなっていく。私たちは「だれか」の評価、世の中の基準から、また「お金」という生きるための手段からも、想像以上に解放される。要するに、非常に多くの人が自分自身を社会の基準に擦り合わせていく作業、そういう作業に一生のほとんどを捧げる必要性や意味そのものが、しだいに薄れていくのだろう。
その芽はすでに、現在の社会の至るところで現れ始めている。
そんな次の時代には、だれもが唯ひたすらに、だれにでもない自分にとって意味をなすことやもの、人や存在、共同体へ自分の時間とエネルギーを割いていく。
はたしてそれは、ユートピアかディストピアか。

これについて、ほかの人がどう思うかは正直あまり関心がない。ただそういう感覚が社会の中で膨らんでいく時間の流れのようなものと、それにともなう内的な自己変容のプロセスを、どこでもないどこかから眺めているという感覚。

だれもが未来に連れて行ってはもらえない。否」

私たちの前にはもう未来行きの列車はない。
列車そのものが消滅する。
時代は次のステージへ飛び立とうとしている。

 


“The Man Who Flew into Space from His Apartment”

「アパートの自室から宇宙へ飛び立った男」

イリヤ・カバコフ (1985)

 

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参照
Ilya & Emilia Kabakov website:  https://ilya-emilia-kabakov.com/installations/not-everyone-will-be-taken-into-the-future/
TATE website:  https://www.tate.org.uk/whats-on/tate-modern/exhibition/ilya-and-emilia-kabakov/ilya-and-emilia-kabakov
TATE YouTube:  https://www.youtube.com/watch?v=LzrM9v26SPI
沼野充義『イリヤ・カバコフの芸術』(1999)
TATE Publishing “NOT EVERYONE WILL BE TAKEN INTO THE FUTURE (2018)